
| まだ、作成途中です |
| 東海道難所の一つ箱根の山道「旧街道石畳」を歩いてみました。
箱根旧街道は、史跡の多い三島までの「西坂」と温泉を抱えた宿場のある「東坂」とありますが、 どちらも石畳の道。江戸時代の石畳や杉並木が今も一部残っています。 今回は、その東坂を箱根関所跡から出発し箱根登山線箱根湯元駅を終着とする下りルートで歩きました。 もちろん逆ルートの方が一般的なんでしょうが・・・。 箱根湯元駅→路線バス→箱根町(元箱根でも良いんですが杉並木を歩くにはこちらがベター。次地図参照) →箱根関所跡→県立恩賜箱根公園→旧街道杉並木→身替り地蔵→箱根旧街道入口 →興福院横→杉並木歩道橋→甘酒茶屋→猿すべり坂→見晴茶屋→旧街道七曲り坂 →かしの木坂→旧一里塚→畑 宿→大 沢 坂→江戸時代の石畳 →沢歩き→女ころばし坂→一般道→駅近道→箱根湯元駅 |
箱根湯本駅
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箱根関所跡→県立恩賜箱根公園→旧街道杉並木→身替り地蔵→箱根旧街道入口
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箱根旧街道入口→興福院横→杉並木歩道橋→旧街道石畳道
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箱根の森→白水坂→甘酒茶屋→猿すべり坂→見晴茶屋
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見晴茶屋→旧街道七曲り坂→かしの木坂→旧一里塚→畑宿
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大沢坂→江戸時代の石畳→沢歩き→女ころばし坂
途中までは真っ直ぐに降りる歩道を、かしの木坂バス停からの後半は一般道の歩道を、箱根新道と交差しながら歩きました。 ところで「かしの木坂」の「かし」の漢字ですが、バス停の字は「橿」、畑宿の案内板では「檀」で「樫」は見当たりません。 本当のところは不明ですが、漢和辞典を引っ張り出してきました。樫も橿も常緑樹のかしの木のようですが、 橿は「キョウ」と読み「もちの木」の意味もあるようです。常緑樹のもちの木の本来の字は「檍(オク・ヨク)」のようです。 檀は勿論「ダン」ですが落葉樹の一種だそうです。ただ、檍も檀も弓を作る材料になるんだそうです。 ポイントはそのあたりかな? さて、この区間では写真を撮っていません。じつは一抹の不安がチラチラ気になって。 「箱根の湯まで下りて、17時までに駐車場まで戻れるだろうか」 一般道から山道に入り、箱根新道を渡る石畳の橋を過ぎれば畑宿も間近。 畑宿の手前に現れた二つの小山は江戸から23里の一里塚でした。
ここで急な下り道を終え小休止。しかし、この道をずうっと登って行くのは確かにキツイ道だと感じました。 畑宿は人が睡眠をとるための宿場ではなく、登り道が急坂になる手前で荷物の造り直しをした所だそうです。 「本陣跡」はその支度を請け負ったお店の跡だったんですね。そして荷造りのうまい職人が雲助だった訳ですねえ。 大 沢 坂 寄木のお店や工場を覗きながら畑宿の道を歩き、 細い道で左への急カーブの途中から石畳道に戻りました。 ただしこの区間は幾多の自然災害により石畳はほとんどが崩れていました。 途中で半分が折れている丸木橋なんて、高さがないからいいようなもの。 江戸時代の石畳 一旦一般道に出ますが、いよいよ石畳の道ハイキングも佳境に入ります。 それは二ヶ所に分かれて残っていました。 ほんの数メートルしか離れていないのに、それらの様子は少し違っていることに気が付きました。 しかしその訳は不明です。でも、歩いてみて共通点を感じました。どちらも足にフィットしているんです。 ところでこの石達は、現在までいったい延べ何人の人に踏みつけられたことでしょう。 旧街道から外れますが 一般道に出て石畳の道とはお別れです。 少し前から時折聞こえていた祭り囃子のような音の正体が判明しましたが、 それはさておき、須雲川の河原に下りて行きました。 須雲川を丸太橋で渡って、箱根新道の土手との間にできた散策路を須雲川橋まで歩きました。 当日は暑い日ではありませんでしたが、川沿いの木々の間を抜けるこの道は心地よい道でした。 須雲川の川幅も広くなり橋は大きく立派でした。橋の端に「女ころばし坂」なる道標がありました。 なんじゃそれは!ですが、馬に乗せた女性が馬から落ちて落馬してしまうほどの険しい坂があったそうです。 江戸時代の石畳が残っていた所からここまで旧街道は一般道の山側にあったそうですが、 かなり以前より崖崩れで通行不能になっていました。実際に歩いてみれば「女ころばし」の意味もよく理解できたかも。 | ||||||
旧東海道から箱根湯元駅へ
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